1966年、時の行政管理庁から夜間中学の廃止をする勧告が出され、これに廃止反対と増
設運動を担ったのがタカノマサオさん。
1971年の全国夜間中学研究大会では「形式中卒オール1の会」が壇上を占拠し、形式卒
業者の怒りをあらわにし、来賓の文部省・大阪市教委・夜間中学の教師を激しく追及し
た。それを端的に表したのが、タカノマサオさんの「差別の二重構造」という言葉だっ
た。夜間中学関係者は被害者意識だけを強調して、加害者であることを忘却しがちであ
り、そのなかでより弱い立場の人を切り捨ててしまっていること、そのため差別の構造
を断ち切れなかったこと反省している。文部省が夜間中学に予算をつけ始めた時期、夜
間中学が体制に飲み込まれれば、夜間中学が差別を温存し再生産する場になる可能性が
出てくると述べている。
タカノマサオさんが、そのようななかで開設したのが、「永山則夫の「私設」夜間中学
」だった。永山は厳しい家庭環境の中で育ちながら長欠をしながら中学を卒業した形式
卒業生のひとりであり、獄中で綴ったノートが「無知の涙」として刊行されると、その
生い立ちや思想に注目が集まり、裁判支援の運動が取り組まれるようになった。
その永山則夫の死刑が執行される最後の面会人となったのが、市原みちえさんで、市原
さんはその縁から「貧困」「夜間中学」「死刑制度」について市民として考える運動を
行っている。
この度、1月24日25日と、奈良市において、市原さん宅に保管している永山則夫の遺品
、初公開となる自筆原稿等を展示しながら、永山則夫の遺したものとして市原さんのお
話を聞く機会を作った。
是非ご参加ください。
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