前回の市民の集いの質問について②

2 教員の世界は日常業に追われ、外部の世界に触れることができない。自分の世界を広げるための環境づくりにはなにが必要か。
 ぼくも含め教師になる人はまじめです。一生懸命誠実に取り組みます。それはとても素晴らしい特性ですが、周りがあまり見えていません。「こうあるべき」「こうしなければならない」ということにとらわれています。そこから自由になるためには、少しいい加減になることです。無理はやめることです。教師の仮面や鎧を脱ぎ捨てる時が必要です。「いいかげん」をひっくり返せば「かげんがよい」のです。自分がよく見られようと思うことをやめたらいいと思います。そのためには、今の相対評価による人事評価制度(大阪だけかもしれませんが)もよくありません。教育行政も、先進的研究校、モデル校、特色ある取り組みなど、余計なことはやめたらいいと思います。
 ぼくは人権教育担当の時、北区・淀川区・東淀川区の人権にかかわる研修の企画や実践の支援の仕事をしていました。研修を企画する際に一番心掛けたことは、学校に居たら絶対で会わないような人を講師に招くことでした。「なんでこれが人権教育研修やねん?」と批判もされましたが、「ほんものに出会う」ことは、根底で人権につながると感じたからです。週2~3時間の授業しか持っていなかったので、その間、いろんな人に会いに行きました。その経験はとても貴重でした。その職を離れても、土日の過ごし方は、別の世界に触れることが中心になりました。教育関係の研修会で管理職として学校マネジメントを考えるよりも、自分の興味のある面白いことに時間を使っています。
 「加減よくやる」「面白いことをする」「すぐに役立つことに目を奪われない」ことを自分自身では気をつけていますが、何せ仕事量は本当に多いです。本気で真剣にやったら病気になるかもしれません。だから、文科省はしょうもない思いつきで新しいことを次々おろさないでほしいし、教育委員会もそれを横流しするだけの事務的作業で現場におろさないでほしいし、校長先生もそれを真に受けて実績を上げようなんて思ってほしくないというのが本音のところです。
 具体的に仕事を減らすことが難しい以上、本気の出しどころを考え、適当にやるしたたかさが教職員には必要です。
 こんな考え方を広めることが、人脈を広めていく環境づくりにつながればと思いますが、一回負のスパイラルにはまり込んでしまった学校では、なかなかそれは難しいですね。結果が出ないことを保護者や社会が許してくれませんから。やっぱり、学校の仕事がいかにダークで大変な仕事か、下手したら教員の人間性さえ奪ってしまうぐらいハードであること、それを放置しておくことは、結局は子どもが一番の被害者になることを広く社会に理解してもらうことではないかと思います。そのためにメディアの方のお力も貸して頂ければと思います。
 

市民ひろば なら小草

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