公式ラインでの送信ができなくなり、こちらで残りすべてを紹介します。
あらためて、誠実に対応してくださった久保さんに感謝いたします。
3 子どもに学びの楽しさを伝える
できるか、できないかではなく、本当に「学ぶ」ことの楽しさを子どもには知ってほしいです。「遊び」も学びです。その遊びが決定的に不足しているのが、現代ではないでしょうか。遊びからつながっていく学びをどのように構築していくかが、重要だと思っています。強制ではなく、自ら面白がってできることを大事にしたいです。そのためにも、教員が遊び心をもって楽しく生きていることが大切だと思います。教職員が、元気で楽しそうで、いつも笑顔なら子どもは、学校も学習も楽しくなると思います。大人が学ぶ楽しさを見せていれば、子どもにも伝わると思います。
子どもたちにも、教職員にも、自分自身にも「ありのままでいいんだよ」「できてもできなくても、そこにいることが素晴らしいんだよ」「一人じゃないよ、みんな一緒につながって生きてるよ」と言いたいです。安心して、自信をもって、自分を好きになり、自由に進んでいけたらうれしいです。
4 「個別最適化」について
ぼくは、怖い言葉だなと思います。「一人一人を大切にするというニュアンス」を感じることができません。「それぞれの個に適した教育を」という意味なんでしょうが、「それぞれの子どもの個性やニーズに合わせて、柔軟な教育を」というのとは、何か違うと思ったのです。それは、GAGAスクール構想の中で使われていたからかもしれません。
「最適」って誰がどうやって決めるのかと。そんなもの誰にもわからない。自分にさえわからない。「これが君の最適だよ」と言われたたらぼくは拒否したいです。しかし、きっとそれを拒否できるような社会ではありません。ビッグデータを使ってAIが決めるのでしょうか。これは人権侵害ではないかとさえ思います。旧優生保護法によって、断種手術を強制された障害者の人たちは、当時、それがあなたにとっての最適なことだと言われたのでないでしょうか。「個別最適化」がどんな文脈で使われていくのか、注意して見ていく必要があると思います。
電子教科書についてもご質問がありましたが、きっと便利だと思います。紙では伝えられないいろいろな情報を与えてくれると思います。しかし、何かを得るということは、何かを失うということです。人は、失ったものをあまり見ようとしません。見えないものは、無いもと考えてしまう。きっと、表現されていないものから何かを読み取る力、つまり想像力のようなものを失いかねないと思います。
5 教育は社会に応じるものなのか、社会を変えていくものなのか
どちらの側面もあると思います。そのバランスが大事なのではないでしょうか。現在は、経済至上主義のもと市場原理に基づいた「競争」による教育に大きく傾いています。右肩上がりの経済成長を支えるための教育が求められているわけです。そこでは、人間が非人間的に生産手段としての人材として扱われていく。そして、今、そこに子どもたちも教職員も追い詰められ苦しい思いをしているわけです。何とかその教育を進めたいと政治的権力が教育に介入している状況なのだと思います。戦前を反省し、教育の力で社会を変えようとスタートしたのが、戦後民主義教育のはずです。教育が社会をつくってきての今であるとすれば、この今の社会に合わせようとする流れも教育がつくってきたものだと言えます。どんな社会をつくりたいか、何が幸せか、どんな人生を送りたいか、社会と個人を結び付けて何を大切にしたいのか、そんなことを子どもと共に大人が考えるような「教育」が必要だと思います。丸裸になって「人として本当に大切なこと」をみんなで考えることから、教育によって社会を変える雰囲気が生まれてくるのではないでしょうか。そして、傾いたバランスが元に戻ることを願います。
学習指導要領についてもご質問がありましたが、指導法まで含めてとても細かくいろいろなことが規定されるようになりました。法的拘束力を持つという解釈ですから、縛られていることに間違いありません。画一的、均質的な教育を進める、ある意味、教育の国家統制を可能にするものになり得るものです。さらに教科書検定が厳しくなり、ほぼ国定教科書と言っていいようなものになりつつあると感じます。
6学校来ないという選択に対するサポートについて
以前は、不登校の子どもを学校に戻すことが不登校支援でしたが、教育機会確保法ができて、今は、必ずしも学校に戻ることが大事ではなく、むしろ、フリースクールで学ぶことも積極的に出席と認めるなど、多様な学びを認めようという方針に代わりました。一見いいように思いますが、これもGIGAスクール構想と相まって、注意が必要だと感じています。
なぜなら、不登校の子どもたちがなぜ不登校になったのか、今、どのような気持ちなのかが問題にされていないからです。今の教育システムがもっと違うものであれば、彼らが不登校になっていなかったかもしれないと考えれば、何でも学びの場として認めようというのは問題の本質から目を背けるものです。今の教育システムが、多くの子どもたちを生きづらくさせ、不登校という形で結果的に学校から排除することになっているとしたら、今の教育システムを見直し変えていくことが必要です。根本的な問題をそのままにして、不登校特例校をつくったり、フリースクールを認めたり、オンライン授業でも構わないとなったりすることが本当に子どもの学びの保障になっているとは思えないのです。要するに、「学びの場はどこでもなんでもいいから、きちんと学んで結果出してね。それでも無理って言うことは、君の自己責任だからね」と言っているように思えるのです。考えすぎかもしれませんが、「不登校の存在を無いことにしよう」という文科省の姿勢を感じてしまうのです。
決してフリースクールを否定しているわけではありません。学校にかない子どもたちへの偏見や差別が厳しかった時代から、何の支援もないところで子どもの安心できる居場所をつくってこられた努力には頭が下がる思いです。学校として本来すべき支援ができずにいたことをむしろ後ろめたく感じています。だからこそ、本当に子どもによっての学校とはどうあることが望ましいのか、きちんと議論する必要があると思います。
5 様々なご質問に、大阪市の小学校に勤める校長として思うこと
「管理職になって良かったか」「管理職として心掛けていること」などのご質問をいただきました。なりたくてなったわけではないのですが、誰かがしなければならないことなら程度の気持ちで、今もあまり「校長」を意識してはいません。ですから、肝心の時には頼りない校長だと思います。心掛けていることは、教職員の皆さんがリラックスして働ける緩い職場にすることです。自分にとってもその方が楽だからですが。仕事をし過ぎず、元気で笑っていられるそんな温かい仲間としてつながっている職場であってほしいと願っています。
失敗を責めない、頑張りを称え合う、そんな雰囲気が生まれるには、ぼくのようなちょっとさえない校長がぴったりかもしれません。当たり前のことだけ楽しくみんなで協力して行う、そんな平凡な学校、平凡な校長、平凡な教職員、平凡な子どもたち、それが木川南小学校の最大の強みではないかと思っています。
(本校の合言葉)
「いのち一番 にこにこ二番 すすんで三番 やってみよう!
かまえて せーのっ ガッツ!!」
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